LOGIN日曜日の朝。いつも通りの時間に起きたものの、実花は顔を顰めた。昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じれば思い出す。外灯に照らされた光也。リボンを解かれたときの感触。 『礼なら、これをもらっておく』「……もう」実花は枕へ顔を埋めた。朝になっても胸の高鳴りは治まらない。.朝食を終え、自室へ戻っても落ち着かなかった。本を開いても頭に入らない。紅茶を飲んでも気持ちは静まらない。窓の外を眺めても、思い出すのは光也の横顔ばかりだった。(このままでは駄目だわ)昨夜は刺激が強すぎた。気分を変えよう。そう思った実花は、外出の準備を始めた。◇◇◇「買い物?」実篤が新聞から顔を上げた。「はい。少し見て回りたいと思いまして」「護衛をつけなさい」即答だった。実花は苦笑する。「大丈夫です。いつもの所なので」藤宮家が昔から利用している百貨店。顔見知りも多い。「西野を呼べばいい」実篤は懇意にしている外商を呼ぶように言う。「いろいろ見て回りたいのです」「しかし」「すぐ帰ってきます」何度か説得すると、実篤は渋々頷いた。「何かあればすぐ連絡するんだぞ」「はい」実篤の心配に心が温かくなり、実花は笑顔で家を出た。.日曜日の百貨店は賑わっていた。ショーウィンドウには季節を先取りした服。化粧品売り場から漂う香り。行き交う人々の楽しそうな声。(こういうのも楽しい)西野が選んでくれるものは、いつも間違いがない。。欲しいものを、実花に似合うものだけを用意してくれる。
「見てみろ」光也に呼ばれ、実花は首を傾げながらモニターへ近づいた。「え? 私が?」「いいから」珍しく光也は面倒さを隠さない顔をしている。実花は不思議に思いながら画面を見る。そして。「お父様!?」思わず声が裏返った。エントランスに映っていたのは実篤だった。腕を組み、明らかに機嫌が悪い。しかも一人ではない。後ろには高峰と、なぜか航までいる。「な、なんで!?」実花は慌てて振り返った。「どうしてここが分かったんですか!?」光也は額を押さえながら、実花のバッグを指さした。「あれだ」「何です?」「君のスマートフォンだ」「スマートフォン……あ」「そうだ。あれの位置情報」実花は固まった。実花のスマートフォンの位置情報は藤宮家のセキュリティシステムに共有されている。「完全に失念していた」光也がため息を吐く。実花は目を瞬いた。いつも何でも覚えていて、何でも見抜いてしまう人が。失念。「東国さんでも忘れたりするのですね」思わず口から零れた。光也が眉を上げる。「当たり前だろう」「そうなのですけれど」実花は少しだけ笑った。なぜだろう。その言葉に安心した。実花から見て、光也は完璧な人だった。何でもできて。何でも知っていて。失敗なんてしない人だと思っていた。でも違う。忘れたりすることもある。(もしかしたら何か失敗だって……)そんな当たり前のことが妙に嬉しかった。◇◇◇数分後。二人はエントランスへ降り
「東国さん!?」驚く実花とは対照的に、光也は平然としたまま脱いだシャツをソファの上に置く。背筋がしなやかに動き、鍛えられた上半身だと分かる。それが露わになって目の前にあり、実花の思考は停止した。「え?」それしか言葉が出ない。光也はそんな実花を見て首を傾げる。「なんだ?」「なんだ、ではありません!」思わず声が大きくなる。「なぜ脱ぐんですか!」「汗をかいたからだ」即答だった。あまりにも当然のように言われて、実花は言葉に詰まる。「汗を、かいた……」「日本の高温多湿は苦手だ」光也は不快そうに髪をかき上げた。確かにスポーツクラブへ行き、そのまま野球観戦をして、今ここまで来ている。汗をかいていても不思議ではない。だが。「だからといって、ここで脱ぐ理由にはなりません!」「なるだろう」光也は心底不思議そうだった。「君は服を着たままシャワーを浴びるのか?」「浴びません! そうじゃなくて、ここで脱ぐのはおかしいって……!」実花は顔を真っ赤にした。男の人というのはこんなにも無防備なのだろうか。いや、違う。問題なのは光也だ。「破廉恥です!」思わず飛び出した言葉に、光也が沈黙した。そして。「……破廉恥?」「そうです!」「久しぶりに聞いたな。いや、読んだか。聞くのは初めてだ」光也が実花を見る。その目にはからかうような光が見える。「君の教育係は、もしかして江戸時代の人間か?」「違います!」「本当に?」「違います!」光也は肩を震わせた。明らかに笑って
「もっとこっちにこい」肩を抱き寄せる腕の力が強くなった。「ひゃっ!?」実花の肩が跳ねる。「東国さん!」「危ない」「……え?」「車道が近い」光也の言葉に、実花は歩道と車道の境を見る。遠い位置にある。危険とは思えない。しかし、光也は平然としていた。「歩きながらあちこちを見るな。危ない」そう言われると反論しづらい。だが距離が近い。近すぎる。エントランスへ向かいながら、実花の頭は混乱していた。男性の家。夜。二人きり。それらが意味することくらい分かる。実花も子供ではない。恋愛小説だって読む。恋愛ドラマだって知っている。何よりも前の生で結婚していて、男性経験もある。(落ち着いて)しかし、落ち着こうとするほど落ち着かない。自分でも何を考えているのか分からなくなる。エレベーターへ向かう途中で、光也がふと実花を見た。「何を考えている」「いえ……」言えるわけがない。それに意地が悪い。「何もしないぞ」やはり。光也は実花が何を考えていたかなど察していた。「え」光也は呆れた顔をしていた。実花は赤くなった。見透かされている。「俺は君を口説くつもりだが、襲うつもりはない」「そ、そうですか」(え?)「口説く!?」「何を驚いている。当たり前だろう」「え?」展開が早いのか。光也の言葉が分かりにくいのか。実花は混乱した。そんな実花に。「だから安心しろ」安心しろと言う。混乱させている
車が走り出してから、実花だけが状況を理解できていないことが分かった。「あの……」後部座席で実花は首を傾げる。「どうしてお父様を置いてきたんですか?」運転席に座っている高峰が吹き出した。「東国様、聞かれていますよ」「俺に振らないでください」実花の隣に座っている光也は肩を竦める。「主犯は高峰さんですよね」「共犯ではありませんか」二人とも全く悪びれていない。それに。「これは高峰さんの計画、ということですか?」光也に尋ねると、彼は頷いた。「なぜ?」「お義父上を驚かせたかったそうだ」「え? それだけですか?」そんな理由で父親を置いてきたのかと実花は驚いたが。「これが意外と難しいのですよ」高峰がルームミラーでこちらを見た。少し寂しげな顔だったが、すぐに笑顔になる。「正確には“難しかった”ですね。最近の彼はお嬢様たちのおかげでよく表情を崩されます」「そう、なのですか?」「そうなのですよ。先ほどの顔を思い出してください」「ぽかんとしていました」「笑ってしまいますよね」高峰は楽しそうに頷く。「周りに舐められないように厳格な藤宮家当主の仮面をかぶっていますが、素はあれです。あんな間の抜けた顔、久しぶりに見ました」「……高峰さん」実花は呆れた。実篤は本気で驚いていた。娘である実花ですら見たことのない顔だった。驚かせたかったという二人だが、実花のほうは同情する気持ちが強い。「だからといって、お父様を置いていく理由にはならないと思います」実花の苦言に対し、前と横から「仕方がない」という言葉が返ってきた。「デートなんですから」「デートだからな」揃って言われた。実花は納得できなかったが、二人に
野球の試合は終わっても、実篤と光也は実花をどちらが送り届けるかで揉めていた。実花はそれを延長戦を見るように眺めていた。「俺が送り届けます」「同じ家に帰るのだから私が送るのが効率的だと言っているだろう」「効率だなんて無粋な。デートは家までがデートです」「君はどこからその理論を持ってくるんだ」「常識ですよ」「そんな殊勝な真似をしたことはないだろう。絶対に違う。女と会ってもホテルで別れて終わりにしそうな男だ」「記憶にないとは言いません」「否定しろ!」そんな言い争いを続けていた。「また実花があんなナンパに遭ったらどうする」「叩きのめします」当たり前だというように真顔な光也を実花が全力で「だめです!」と止めたところで、実篤の秘書である高峰が現れた。実篤を迎えに来たと高峰は言う。結果、三人で藤宮家の車に乗って帰ることになったのである。.車内は思いのほか穏やかだった。試合の興奮が残っているのか、実篤は前の席で高峰と話している。「だから言っただろう。今年はいけると」「それを言うと負ける気がするのですが」「フラグを立てているとでも言いたいのか」「経験則です」実花は思わず瞬きをした。実篤が楽しそうだし、気さくだ。相手は高峰である。藤宮家の秘書であり、実花が物心つく前から家にいた人だ。仕事ができて穏やかで、いつも落ち着いている人。そんな高峰と父親がこんなに砕けた口調で話していることに驚いた。「お父様と高峰さんって、仲が良かったんですね」前の席の二人が同時に振り返った。「何を今さら」「お嬢様はご存じなかったのですか?」逆に驚かれてしまった。「高峰は学生時代からの友人だ」実篤が当然のように言う。「え?」実
「う、嘘よ……」「嘘? どうして?」うまく呼吸ができないとでも言うように、智花は浅い呼吸を繰り返す。「だって、あんた……だって、恒一兄さんのことが好きだったじゃない」「ええ、好きだったわ」実花もそれは認めた。自分でもみっともなく思うほど、縋り付くように執着していたあれを『好き』というのかは疑問だが。「でももう好きじゃないの」実花はあっさりと言い切る。「好きじゃないって……」「何かをきっかけに好きだったものが好きではなくなる。食べ物でも色でも人でも、そんなこと普通にあることじゃない」実花は穏やかに、諭すように智花に言った。◇◇◇智花は戸惑っていた。いつもの実
ガキにはさせてやれない遊び。そう言われて連れて来られた先を見上げて、実花は目を瞬かせた。ガラス張りの外観が近未来的な高層ビル、エントランスを行き交う人々は皆忙しそうにしている。「ここは?」「俺の会社が入っているビルだ」指差した看板、東国グループのロゴがあちこちにある。前の生でも縁がなくて来たことはなかったが、ここは東国コーポレーションの本社のほかに傘下の会社が多く入っているビルのようだ。「俺の会社はここだ」光也の名刺が目の前に差し出された。東国
実花は勘の悪い人間ではない。だからこそ分かった。今の東国光也は百メートルくらい離れていても分かるくらい不機嫌だ。それくらい空気が冷えていた。「誰だ?」低いで詰問された。何を聞かれたか分かったが実花は敢えて勘違いをした振りをする。「一ノ瀬恒一さんです」でも手に持っていたスマートフォンを軽く揺らして、『電話の相手ですよ』という意思表示も忘れない。 好きな人だと誤解されては困るからだ。(先ほどまで熱弁していた相手が恒一さんだと思われたりしたら最悪よ)&
『お前が俺以外を好きになるって?』電話の向こうで恒一が鼻で笑った。心の底から嘲笑うような、あり得ないと言わんばかりの声音だった。実花は眉をひそめる。前の生の自分なら、この瞬間に後悔していただろう。見栄を張ってしまったとか、勢いで変なことを言ってしまったとか……そう反省して、恥ずかしさに顔を真っ赤にしたはずだ。だが今は違う。苛立ちしかない。方便でついた嘘であり、嘘であることは事実だが、この嘘は恒一が理解しないせいだ。嘘を







